| 1753年(26歳) |
広島で陶土を発見し、陶器製造を指導
長崎遊学からの帰路、鞆之津(現在の広島県福山市鞆)付近で良質の陶土を発見し、そこで地主である溝川家に陶器製造を勧め、製造法を指導しました。
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| 1754年(27歳) |
高松藩の薬坊主並・三人扶持に昇格……(ポイント1)
栗林公園内の薬草園で、朝鮮人参の栽培に成功。また、甘薯栽培や砂糖の精製に関する知識と技術を藩主・松平頼恭公に評価され、薬坊主並・三人扶持という異例の俸禄を得ました。 |
| 1755年(28歳) |
量程器、磁針器を制作
長崎遊学で得た知識をもとに、距離を測るための装置「量程器」(現在の万歩計)と、方位を知るための装置「磁針器」(現在の羅針盤)を独力で制作することに成功しました。
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| 1757年(30歳) |
日本初の薬品会を開催……(ポイント2)
田村先生に勧めて、先生はじめ著名な本草学者の方々が所有する薬草・薬品を集めて展示する、日本で初めての薬品会を江戸・湯島で開催しました。出品点数は総計180種ほどで、出品物や会場の手配、開催の案内、運営など、一切を私が取り仕切りました。
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| 1759年(32歳) |
第3回薬品会(物産会)を主催
田村先生に代わって私自身が主催となり、第3回薬品会を開催しました。この回から、薬草・薬品に限らず、鉱石やオランダの物産なども出品するようにして、物産会に規模を広げ、多くの参観者から評判を得ました。
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| 1760年(33歳) |
薬坊主格・四人扶持・銀十枚に登用
高松藩主・松平頼恭公の命を受けて、京都に随行。その後、頼恭公の要請で、相模湾での貝類の調査、紀伊半島での物産の調査、高松藩領内での本草の調査などに従事し、調査結果のまとめを指揮しました。
また、この間に、薬坊主格・四人扶持・銀十枚に昇格しました。
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| 1761年(34歳) |
伊豆で芒硝(硝石)の採集に従事
高松藩を正式に辞職し、国内外の物産研究に役立つ『禽獣譜』『生植本草』『貝譜』『紅毛花譜』などのオランダの本を入手。
その後、幕府から伊豆芒硝御用を申し付けられ、伊豆の上船原温泉近くで芒硝(硝石)の採集に取り組み、芒硝のほか、黄ミョウバンやコバルトなども発見しました。
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| 1762年(35歳) |
出品数1300種を超える第5回物産会を主催……(ポイント3)
第5回物産会を主催。出品物を、草木・鉱石・鳥獣・魚介・その他珍品など大幅に拡大し、出品希望者も全国から募集しました。出品者に便宜を図るため、全国に25カ所の諸国物産取次所を設けて、取次所から江戸までの出品物の輸送は主催者負担としました。こうした輸送には、日本一の飛脚問屋である京屋弥兵衛の協力を得てその結果、全国から実に1300種を超える出品物が集まり、全国規模の物産会となりました。
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