作品を作ってみたいあなたへ
アニメーションの前に
オタク系アニメは、今や日本が誇る文化として位置づけられています。TVアニメや劇場アニメのような商業アニメーションとは別に、アートアニメーションというものがあります。この言い方が良いのかどうかはよくわかりませんが、個人制作されている創作者を指しています。
歴史が古い国際レベルのフェスティバルも世界中で開催されています。多くの作品評価は物語と表現技術の向上であって、「アニメーション」を前提とした分野であることに違いはありません。現代において自己をアニメーションを用いて表現したいと思っている人はけっこう多いと思いますが、「アニメーション」らしいアニメーションである必要はありません。
アニメーションではありませんが、映像作家のマシュー・バーニーのように大衆映画(キューブリックのシャイニングのように建物とストーリーが一体化している映画)とパフォーマンスビデオアート(ヴィト・アコンチ、ブルース・ナウマンなど)を取り入れ、自らパフォーマンスをおこなう映像作品を作っている作家もいます。
また、ペーター・フィッシュリ&ダヴィット・ヴァイスの「事の次第」(バケツやガラクタ、古タイヤ、日用品などを使ってドミノ倒しをおこなっていくのですが、その動力は水、火、泡、風圧、重力の力を使って展開していきます)や、作者自身がねずみとパンダの着ぐるみを着て物語が展開する「ゆずれない事」は映画とも現代美術ともつかない作品ですが、見るものをユーモアと哀愁に包む映像作品を創作している作家もいます。
「日常の光景や事物に今までと違った相貌を与え、生活と芸術、現実と虚構、自然と人工、混沌と秩序の境を曖昧にしていく」ことはフィッシュリ&ヴァイスが試みている行為そのものであるし、ブローティガンが創造した世界そのものでもあります。何を想像して、どんなアイテムがわきだし、それをどう組み合わせて、どのような形式(ルール)で創作するのか。アニメーションを作ることの前に「なんらかの表現を用いて生まれるプロセス(概念の構造)」をどのように作品化していけば良いかを考えることが重要だと思います。
アニメーションの模索
筆者はこれまで、明快なキャラクター(商品価値や商業的戦力を含んだもの)というものを設定してきませんでし た。人形には名前もありません。
それは、筆者自身の存在のあいまいさを反映させることに起因しています。存在することの意義を模索している一個の人間の姿を人形やキャラクターに形を変 えて表現してきました。
筆者が「さかだちくん」や「百色旅館」を通して考えたのは、キャラクター性というキャッチーで見るものの中にすっと入り込むという、「魔法」の使い方を 間違えるとキャラクターの持つ価値を安易なもの、消費されていくものとなってしまうということでした。
次々と新しい流行を生み出し消費されていくものより、今あるものと平凡な日常をアニメーションに転化されることで、刺激に満ちたものとして再確認するこ と。それは筆者の作品すべてに共通して言えることです。
さかだちくんは、筆者の作ったキャラクターの中ではかなり際立った存在で、悟りの境地に達した象徴的存在であるように見えますが、一方でその姿はどこへ 向かえばいいのか模索している姿としてみる事もできます。言葉なり表現なりを手にいれた人は、それで何かが定着できたと思って油断することの戒めとしてみ ることもできます。
同時に、これまでの筆者の作品にはなかった感覚的な喜び、ユーモアを表現することの大切さも感じています。共に成長し、向かうべき場所を探し続けること に終わりはありません。それは言い換えれば現代を生きるためのアニメーションであり、キャラクターである気がします。
それは、筆者の考えるアニメーションの模索であります。