作品を作ってみたいあなたへ
アニメーションを現代美術としてとらえる
2006年に目黒区美術館で個展を開催し、2008年(4/12~5/25)には平塚市美術館にて個展を控えていたこの時期、アニメーションという大衆性を現代美術の中にどのように取り込めばいいのかについて悩んでいた時期でした(それは現在も悩み中ですが)。
アニメーションだからといって簡単に一般化できないことなんてたくさんあるのだということや、世間的な見方と創作者からの見方のズレをどのようにつなげばいいのかといった問題にさらされていました。
個人でも絵を描くのと同じようにアニメーション制作が可能な時代になったことは、アニメーションそのものの表現の目的に変化が現れているということに気づいている人は少なく、美術館でアニメーションの個展を企画するような、先見の明を持つ人はまれな存在なのです。
アニメーション表現は一般的な認知(解釈)としての「アニメーション」と評価されやすいわけです。松井みどり著「アート:芸術が終わったあとのアート」の中で「新世代アートの特徴」として「マイナー」を目指す芸術という項目があります。そこには現代美術の制度と折り合いの付け方が巧みでなく、それゆえに美術史の中で「周縁化」されやすい作家は「メジャー」なカテゴリーの要求をはねのけて、文化の縁に自分たちの表現の場を探すところに、「第三の」現代美術のすがすがしさと脆(もろ)さが現れていると書いています。
「三つの小さな王国/スティーブン・ミルハウザー著」で、アニメーションとは、存在しないものを「みずから仲間と唱え、不可能なものをその至上の目的として賞揚し、現実の否定の中に、おのれのもっとも深遠な存在理由を見いだしている」と言っています。
アニメーション制作とは「あらかし挫折を運命づけられている」もので、それでもなお、「現実の締めつけを叩き壊すこと、宇宙の蝶番を外して不可能なものを流入させること」が重要だと語っています。「あらかし挫折を運命づけられている」というフレーズは「メジャーな言語を使って表現することを余儀なくされた」現代人の運命を感じます。
それゆえに「マイナー」を選ぶ創作者が生まれるのも時代の流れとしてとらえることができます。
それは、アニメーションを表現に選ぶ創作者の心理そのものです。
誰のために作るのか
日本の教育傾向はあらかじめ決められた「正解」を暗記しさえすれば、良い点数が取れるという仕組みのようなものが出来上がっています。それは筆者自身もそのように教え込まれてきたわけですが、何も考えずに決められたルールに従って生きていくことは、創作することに関して言えばまったく役に立ちません。
アニメーションが前提としてある前に、形式やルールに疑問を持ち、問題をあれこれと考え、さまざまな視点に思いを巡らせることを養っていくことが求められています。忘れられた場所、時代遅れの物、用途が限られたものに新たな使い道を見いだしたり、独自の脱線や言い換え、組み替えをおこなうことで見えてくる可能性を自分なりに考えることは今を生きる必然的な術に感じます。
だからといって創作を続けるためには作り出すものに少なくとも共感を持ってくれる人たちがいないことには成り立ちません。これが芸術(自分)の世界だと声を荒らげたとしても1人ではどうすることもできません。
現代社会の競争原理の中で生計をたてることはとても難しいことです。少し踏み違えると経済的に破たんしかねない不安を孕(はら)んでいる現代において「ただ生きる」ことを見失わないようにするのも容易なことではありません。どんな表現でもいかにしてコミュニケーションを成立させられるかも忘れてはなりません。
立体アニメーション制作が筆者の個人的な問題を少しずつ解決していくきっかけとなったのは疑いのないものですが、個人的な問題から創作は少しずつ大柄なものへと発展し、やがて社会にむけたメッセージや、自己の変容という哲学的なテーマ、性におけるネガティブな側面をテーマにしたり、あるいは言葉と映像の関係を創作のテーマにすることで、自分独自の形式を打ち出すことにつながっていけたらと思います。
今後も創作した作品を通して、多くの人とコミュニーケションしていけたらと良いと思っています。
なお、本稿の執筆にあたって、以下を参考にしました。
ガルシア・マルケス「エレンディラ」サンリオ文庫もしくはちくま文庫(発行年:1988)
「地球のはぐれ方-東京するめクラブ」文春文庫(発行年:2004)
スティーブン・ミルハウザー「三つの小さな王国」白水uブックス-海外小説の誘惑(発行年:2001)
「ペーター・フィッシュリ&ダヴィット・ヴァイスDVDボックス」アップリンク(発行年:2007)