学校外につくられる子どもの世界

2016年2月9日(火)
特定非営利活動法人日本ネットワークセキュリティ協会 (JNSA)未来予測プロジェクト
この記事は、書籍『サイバーセキュリティ2020 脅威の近未来予測 』の内容を、Think IT向けに特別にオンラインで公開しているものです。詳しくは記事末尾の書籍紹介欄をご覧ください。
主な登場人物
  • 真希:中学1年生 12歳
  • 菜央:母 38歳
  • 正洋:父 41歳
  • 玲奈:姉 高校3年生 17歳
  • 西尾:父の友人のネット探偵 41歳

安全? 不安? 2020年の中学校

 今日は中学1年生の真希の授業参観日。真希と母の菜央は、自宅にそれぞれの車を呼んで乗り込んだ。最近の車は自動運転で、小さな1人乗りが主流だ。自転車感覚で使えるので、子どもたちもマイカーで通学する。学校に着けば車は自分で駐車場に帰っていくし、下校時はまた呼び寄せればいい。運転手がいなくても車が自分で動くようになって以来、自宅に車庫がなくても離れた駐車場から呼び寄せられるので、都心の駐車場問題はほぼ解消されつつある。

 中学校に着いた2人は校門に設置されたカメラの前に立った。ピっと音がして、画面にOKサインが表示されると、扉がスーっと開く。2人は、壁から出てきた2枚のICカードを抜き取って首にかけ、中に入った。

 最近では、ほとんどの小中学校の出入りが、顔認識カメラとリアルタイム位置情報カードで厳しく管理されている。生徒はもちろん、保護者の顔も入学時に登録される。未登録の人間が敷地内に侵入すると、顔認識カメラをつけたドローンが不審者を追い回して顔や姿を撮影し、警察に自動通報する仕組みだ。

「話には聞いていたけど、ちょっと息苦しいわね」

 長女で現在高校3年の玲奈が中学生だった頃にはなかったシステムに、菜央はちょっと戸惑っている感じだ。

「でも、この前も刃物男がドローンのおかげで逮捕されたし、安心が一番ね」

 教室内には、保護者の姿は4、5人しかない。遠隔地と結ぶテレビ会議システムが進歩し、わざわざ学校に来なくても授業を参観できるようになった。スイッチ1つで、教室のプロジェクターに保護者の姿がリアルに映し出され、やりとりもできる。今日はシアトルに単身赴任中の父、正洋も遠隔参加した。

 とはいえ、見ていてあまり楽しい授業風景ではない。生徒たちは各自のブース内でヘッドフォンとマイクをつけ、自分のタブレット端末に見入るばかり。勉強を教えてくれるのは、画面の向こうの「先生」だ。担任教師は生徒たちの間を廻り、時折「よそ見しないで」などと注意するくらいである。

 近年、授業のICT化が進み、紙の教科書はなくなった。すべてデジタルコンテンツで、全国から選抜された「教え方のプロ」の先生が登場するものから、教育界の初音ミクのような2次元アイドルが先生役を務めるものまで、生徒が自由に選べる。また、授業内容は生徒の理解度に応じてAからEまでのレベルに分かれている。全員に同じ内容の授業だった時代と違い、授業についていけないとそのままずるずる落ちこぼれてしまったり、逆に、簡単すぎて能力を活かせなかったり、といった問題は起きない。

開放的なインターネット上の閉鎖的空間

 問題となっているのはコミュニティーの分断だ。授業のレベルによる階級ができ、違うレベルの生徒同士の交流はほとんどなくなってきた。休み時間も、それぞれの学力ごとにグループができ、別のグループとは言葉を交わすこともない。めったにないことだが、先日、学校内で上位グループの女子が下位グループの女子たちにトイレで恐喝されそうになる事件も起きた。これは、例のICカードによる位置情報で、一度にトイレに入るには異常な数の人間が集まったことから警告が発せられ、先生たちが駆けつけて事なきを得た。

 だが、子どもたちが本当に恐れているのは、「目に見えない世界でのいじめ」だった。ソーシャルアプリの代名詞とも言われて一世を風靡したPINEに代わって登場したCHATは、中学生の8割が使っていると言われ、子どもにとっては現実世界以上にリアルな「第2の世界」になっている。CHATの中のアバターは育て方によってさまざまな「人生」を生きていくことになり、リアルの世界では弱々しい子どもが、CHATの世界では財を築き周囲に影響力を行使するというケースもある。子どもたちはリアルとCHATの両方の人生を生きているのだ。

 不思議なことに、CHATが流行するようになってから、リアルな世界でのいじめは一見、沈静化したように見えた。だがその実、CHATの世界で熾烈ないじめが始まっていたのである。ウェアラブル端末の流行で、最近はほとんどの子が水中でも利用可能な腕時計型の端末を使っている。ほぼ24時間つけっぱなしで、常にもう1つの世界でも振る舞わなくてはいけない。いったんいじめが始まれば、学校でも家でも風呂場でも、どこにも逃げ場はないというわけだ。かつて、いじめの舞台が「学校裏サイト」だった時代には、学校や親が掲示板を探し出してチェックすることも可能だった。しかしPINE以降は、「友達」と認定された仲間しかやりとりを見ることができないため、いじめはなかなか表面化しない。現実の生活が続けられなくなるほど深刻になるまで、大人たちには見えないのだ。

 CHATいじめで自殺者が相次いだことから、国は2年前、いじめが認定された生徒については自宅学習で卒業資格を得られる制度を導入した。タブレット端末さえあれば学校でも自宅でも授業内容に差はないため、その数はどんどん増え、今は小中学生の3割がいじめ認定を受けて自宅で学習している。その中には「自宅のほうが効率的に勉強できる」と考えた親による「偽装いじめ」の申請も含まれているようだ。

 いじめ問題は、真樹と家族にとっても他人事ではなくなってしまった。ある朝、真希が何時になっても部屋から出てこない。ドアをこじあけた母が、ベッドで布団をかぶったまま蚊の鳴くような声で「学校に行きたくない」と訴える娘からようやく聞き出したのは、CHATでの執拗ないじめの実態だった。

 きっかけは、半年前、真希のアバターがCHATで奇妙な行動に出たことだったらしい。ありもしない同級生の失態を触れ回ったり、度を越した悪口を言ったり。だが真希自身にはまったく身に覚えのないことだった。真希が標的になったのはそこからだ。CHAT内のあらゆるイベントから閉め出され、無視され、悪口を言われ、持ち物を壊され……。犯罪の濡れ衣を着せられた上、みんなの前で総括させられたこともあった(いわゆるつるし上げだ)。

 確かに、この半年ほど真希の成績は下がり続けていた。最近は食も細くなり、時折ふさぎ込むようになっていた。「なんで気づいてあげられなかったのだろう。なんとかしなきゃ」と思う菜央だが、菜央の知識はパソコン時代止まりで、最近のSNSの世界にはついていけていない。思いあまって、単身赴任中の正洋に相談してみた。すると、正洋は言った。

「そうだ、ネット探偵をしている後輩の西尾君に相談してみよう」

 ウイルス解析からデジタルフォレンジックまで、ありとあらゆるセキュリティの知識を駆使して、ネットの世界の難問解決に挑むネット探偵。なかでも西尾はスーパー探偵の誉れ高い一流だ。真希を幼い頃から知っている西尾は、全面的な協力を約束してくれた。

 西尾は、アバターの行動から、真希の端末に「悪意(AI)の手さん」というCHATを操作するなりすましアバターが侵入していることを疑った。これは、CHAT上で使用者になりすまし、使用者の端末内の個人情報やメールやメッセージなどの会話の履歴をもとに、人を中傷するような発言を使用者本人に気づかれないように行う、悪意に満ちたアバターウイルスだ。

 西尾はこのウイルスの感染を見つけ、感染経路を調査した。感染は半年前だ。真希の友人の名で送られてきたCHATメッセージに誘導されたサイトで、ウイルスに感染した。友人が真希を陥れるために、故意にやったことなのか? 西尾は複雑な気持ちになった。

 最近のウイルス問題は、作為不作為を問わず友人など近しい人間が関与していることが多くなってきたため、ネット探偵はICTの知識以外に人間関係を整理する技量も求められる。西尾は、菜央にこう言った。

「原因はわかった。CHATのアバターウイルスが関与していたみたいだね。でも安心して。ウイルスは駆除した。真希ちゃんが汚名返上して、以前のような生活を取り戻すまでには時間がかかるかもしれないけれど」

 後日、CHATの提供会社から「悪意(AI)の手さん」アバターウイルスの緊急対応情報が流れた。また、ウイルスに感染し真希のように加害者となってしまったユーザーや、その言動で被害にあったユーザーに、一連の不正内容がCHAT提供会社から詳細に報告された。真希へのいじめはこの報告以降次第に終息した。真希は、少しずつではあるが友人たちと昔の関係を取り戻しつつある。ただし、CHATいじめが始まる前の生活に戻ることは難しい。

必要なのは一般人のリテラシー向上

 CHATいじめの深刻化とCHATを標的にした今回のウイルスの被害が大きかったことを引き金に、18歳未満の使う端末には、保護者が監視できるモジュールを入れるべきだという声が上がり始めている。端末での操作や閲覧画面すべてを、保護者の端末でチェックできるようにする仕組みだ。国も研究会を作って検討はしてきたものの、プライバシーや人権上の問題を指摘する声もあり、なかなか踏み切れないでいる。だが、真希の学校では校長の意向で、来年度から保護者と生徒本人の同意を取ったうえで導入することを決めた。生徒からは反発の声も上がっているが、内心、ほっとしている子もいるようだ。

 しかし、管理するだけでは問題は解決しない。「本当は、セキュリティの専門家に相談しなくても、親や教師がもっと情報リテラシーを向上させて、自分たちで子どもの状況を見守ったり、指導したりできるようになるのが一番なのだが……」と、西尾探偵は顔を曇らせる。今回も、身近な大人になりすましアバターの知識があれば、相談にのって解決できたかもしれない。

 そこで西尾は、情報セキュリティに携わる有志とともに、放課後、子どもたちに情報の授業を行うと同時に、親に向けたリテラシー講座を開いている。かなり成果を上げているが、有志だけでは受講者数にも限界がある。同じような講座が全国の学校に広がればいいのだが、そのためには情報セキュリティ専門家による助っ人制度といったものが必要だろうと、西尾は思っている。

コミュニケーションサービスは日々進化し、それとともにいじめの形も変化していく。子どもたちの心を救うためには2020年のテクノロジーを見据えたリテラシー教育が重要になる。
サイバーセキュリティ2020 脅威の近未来予測

編者:特定非営利活動法人日本ネットワークセキュリティ協会(JNSA) 未来予測プロジェクト
発売日:2015年11月6日発売
ISBN:9784802090179
発行:インプレスR&D

サイバーセキュリティ2020 脅威の近未来予測

東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年に向かい、ICT、IoTがますます発展することは間違いありませんが、同時にサイバーセキュリティへの取り組みも転換期を迎えています。本書は2020年にどんなICT社会が実現し、それに伴いどんな脅威が予測されるのかを3部構成で解説しました。まず、テクノロジーが進展した2020年の生活を架空の物語として紹介、続いて専門家の寄稿により、次世代の技術とそのリスク、社会課題について詳しく解説します。最後に、3人の識者が今後のプライバシー問題を予想しています。これから5年、どのようなセキュリティの施策を考えるべきなのか、ユーザーと技術者、事業者が一緒に考えるために、必要な情報を提供します。

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著者
特定非営利活動法人日本ネットワークセキュリティ協会 (JNSA)未来予測プロジェクト
日本ネットワークセキュリティ協会(JNSA)は、2000年4月に任意団体として活動開始、2001年7月に特定非営利活動法人(NPO)として認可。情報セキュリティの分野で活躍する多様な人材が多数所属している。情報セキュリティに関する啓発・教育・調査研究および情報提供事業等を通じて、標準化の推進と技術水準の向上に寄与すると共に、公益の増進に貢献することを目的として広範で活発な活動を行っている。本書籍を執筆した未来予測プロジェクトは、東京オリンピックを見据えた3~5年先の脅威予測を行い、書籍などの成果物を通じて社会への啓発を図る活動を行っている。

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