「当たり前」の下で起きている地殻変動
現代のビジネスにおいて、ネットワークが安定稼働していることは、もはや「当たり前」の前提条件と言えるでしょう。私たちは、蛇口をひねれば水が出ること、スイッチを入れれば電気がつくことを疑わないように、ネットワークの存在を意識することさえ少なくなりました。しかし、その揺るぎない「当たり前」を支えるネットワーク監視の世界で今、静かな、しかし巨大な地殻変動が起きていることをご存知でしょうか。
長年にわたりネットワーク管理の礎を築いてきた伝統的な手法が、現代のネットワーク環境がもたらす複雑性とスケールの前で、その限界を露呈し始めているのです。
本連載「ネットワークオブザーバビリティの'水源'を探る」では、全6回にわたり、この変化の本質に迫ります。特定の監視ツールやプラットフォームの機能を紹介するのではなく、その大元となるデータ、すなわちネットワーク機器自身が発信する情報の「水源」に焦点を当てていきます。この探求の旅を通して、読者の皆様と共に、これからのネットワーク管理者に求められる新たな視点と知識を紐解いていきたいと思います。
まずは、この地殻変動の震源、すなわち、なぜ今、ネットワーク監視が「再発見」されなければならないのか、その理由から見ていくことにしましょう。
共通言語だった「SNMP」の限界
「当たり前」を支えてきた巨人
私たちの世界に、異なる言語を話す人々をつなぐ「共通言語」が存在するように、ネットワークの世界にも長年、デファクトスタンダードとして君臨してきた共通言語がありました。それが「SNMP」(Simple Network Management Protocol)です。
SNMPの最大の功績は、メーカーや機種が異なる多種多様なネットワーク機器に対して統一された手法で「対話」し、状態を把握することを可能にした点にあります。このプロトコルがあったからこそ、私たちは単一の管理ステーションからネットワーク全体のCPU使用率やメモリ使用量、インターフェースの通信量といった基本的な健康状態(ヘルスチェック)を効率的に監視できたのです。
この仕組みをもう少し詳しく見ていきましょう。SNMPによる監視は、非常にシンプルな2つの要素で成り立っています。
- 質問リスト(MIB: Management Information Base): 管理者が機器に対して「何を知りたいか」を定義した、いわば質問のカタログです。各質問項目にはOID(Object Identifier)という一意の番号が割り振られています。
- 問い合わせ(ポーリング): 管理者は、このリストの中から知りたい項目のOIDを指定して、定期的に機器へ問い合わせを行います。機器はその問い合わせに応じて自身の状態を返します。この一連のやり取りを繰り返すことで、状態の定点観測を実現しています。
このシンプルかつ普遍的な仕組みは、長きにわたりネットワーク監視の基盤として私たちの「当たり前」を力強く支え続けてきました。
時代の変化がもたらした共通言語の黄昏
しかし、その偉大な共通言語であったはずのSNMPが今、深刻な課題に直面しています。なぜなら、ネットワークという世界のほうが、SNMPが生まれた時代からは想像もつかないほど巨大で、高速に進化したからです。
先日開催された「Interop Tokyo 2025」において筆者が主要なネットワークベンダー各社にヒアリングしたところ、共通していた認識は正にこの点に集約されていました。800Gbps/400Gbpsといった広帯域ネットワークが現実のものとなる中で、SNMPによる従来型の監視は、もはや現実的ではないという認識が業界の共通見解となりつつあるのです。
では、一体なぜ、あれほど万能に見えたSNMPが限界に達してしまったのでしょうか。その理由は、大きく2つあります。
1つは「言葉の不足(カウンタ不足)」です。SNMPで通信量を計測するために使われるカウンタは、多くが32ビットで設計されています。これは約4.3GB(ギガバイト)に相当します。
ここでいう「カウンタ」とは、ある時点からの通過量をひたすら足し上げ続ける「積算値」のことです。これは、自動車の走行距離メーター(オドメーター)をイメージすると分かりやすいでしょう。メーターは走行するたびに距離を足し上げていき、決して「減る」ことはありません。
これは「今、時速何キロか」という瞬間的な速度(増減)を示す値とは根本的に異なります。SNMPの通信量カウンタも同様に、機器が起動してからの総通信バイト数を記録し続けるのです。
例えば、10Gbpsの回線では、この積算値がわずか3.4秒で32ビットの上限(約4.3GB)に到達し、ゼロに戻ってしまいます(これを「ラップアラウンド」と呼びます)。
この「ラップアラウンド」の問題は、400Gbpsや800Gbpsといった現代の広帯域な世界では、もはや瞬きする間に発生してしまい、正確な通信量を把握することを極めて困難にしています。
もちろん、この問題を解決するために64ビットカウンタも存在しますが、全ての機器や項目で標準的にサポートされているわけではありません。
もう1つは「方言の乱立(拡張MIBの形骸化)」です。
基本的な情報だけでは足りないため、各ベンダーは独自の拡張情報(拡張MIB)を提供してきました。しかし、新しい機能が追加されるたびに拡張MIBを開発し、メンテナンスし続けることは、ベンダーにとって大きな負担となります。結果として、ベンダーは拡張MIBの充実に消極的になり、私たちが本当に知りたい詳細な情報がSNMPという共通言語では得られなくなってきているのです。
例えば、64ビットカウンタ(ifHCInOctetsなど)は、100Gbps程度までは対応可能でした。しかし、先日のInterop Tokyo 2025において筆者が主要ベンダーの技術者に確認した限り、 すでに現実のものとなっている400Gbpsや800Gbpsといった超広帯域インターフェースの通信量を正確に計測するための新たな標準MIBや拡張MIBは、もはや策定される兆しがありません。
これこそが、SNMPという共通言語が「現代の言葉を失いつつある」ことの具体的な証左と言えるでしょう。
つまり、かつては明快な共通言語であったSNMPは時代の変化により言葉が足りなくなり、さらには各々の「方言」が十分に整備されないまま乱立した結果、コミュニケーションツールとしての輝きを失いつつある、と言えるでしょう。
新たな「水源」を探す旅の始まり
SNMPという、誰もが頼りにしてきた巨大な水源が枯渇し始めている。これが、私たちが今、直面している現実です。ネットワークの安定という「当たり前」を維持するためには、私たちはSNMPだけに依存することをやめ、新たな情報の源泉を探し出さなければなりません。
幸いなことに、その候補はすでに存在します。機器が自らの状態を詳細に語り出す「Syslog」や、通信の流れそのものを可視化する「NetFlow/sFlow」といったトラフィックフローデータ、そして近年急速に台頭してきた、各ベンダーが提供する独自の「API」。これらこそが、これからのネットワークオブザーバビリティを支える新たな「水源」に他なりません。
あなたの組織のネットワークは、本当に「見えて」いるでしょうか。古くからの慣習で続けているSNMP監視だけで、複雑化する現代のネットワークの真の姿を捉えられていると自信を持って言えるでしょうか。
これから、皆様と共に、これらの新たな「水源」を探す旅を始めたいと思います。まずは、今回その限界を指摘したSNMPにあらためて光を当てることから始めましょう。
次回は、ネットワーク監視の歴史を築いたこの偉大なプロトコルの功績を再評価し、その技術的な限界をより深く掘り下げることで、私たちがなぜ「次」へ進まなければならないのかを明らかにしていきます。
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