導入:2つの潮流が交わる場所
前回の探求で、私たちはクラウドという“新大陸”がもたらした、ネイティブなテレメトリの豊かさに触れました。AWS、GCP、Azureが提供する「VPC Flow Logs」は物理的な制約から解放され、広大な仮想ネットワークをエージェントレスで可視化する強力な手段を私たちに与えてくれました。しかし、その一方で私たちは新たな課題にも直面しました。それはプロバイダーごとに異なる仕様、フォーマット、情報の粒度という「仕様の分断」です。
そして、この「分断」という潮流はパブリッククラウドの世界だけに留まりません。事実、先日開催された「Interop Tokyo 2025」において筆者が行ったヒアリングによれば、オンプレミスを主戦場としてきた主要なネットワーク機器ベンダーが揃ってSNMP中心の監視からの脱却を図っていることが明らかになりました。彼らは自社の管理プラットフォームをクラウド化し独自のAPIを通じてテレメトリを提供するという、全く新しいエコシステムへと舵を切っているのです。
クラウドネイティブのテレメトリとベンダー独自のクラウドプラットフォームAPI。この2つの巨大な潮流が交錯する現代において、ネットワークオブザーバビリティの探求は、さらに複雑で奥深い領域へと進んでいきます。
さあ、今回はもう1つの大きな潮流の源泉、ベンダーAPIという「パンドラの箱」を開けてみることにしましょう。
なぜ今、APIなのか?
ー必然としてのクラウド化
そもそも、なぜハードウェアを強みとしてきたベンダーたちが、こぞってクラウドベースの管理プラットフォームとAPIの提供に舵を切っているのでしょうか。
その答えは第2回で探求したSNMPの限界にあります。そして、この「SNMPの限界」はもはや単なる理論上の課題ではありません。「Interop Tokyo 2025」で筆者が確認した主要ベンダー各社の動向こそが、その現実を裏付けています。広帯域化に伴うカウンターの限界や機能追加のたびに拡張MIBを開発・維持し続けることへの負担。これらの課題に対し、各社はもはやSNMPの拡張(新たな拡張MIBの策定など)で対応するのではなく、Ciscoの「Meraki」やJuniperの「Mist AI」、ヤマハの「YNO」といった自社開発のクラウド管理プラットフォームと、そこから提供される独自のAPIへと軸足を移すことを明確に選択しているのです。
この状況を、製品の製造プロセスに喩えてみましょう。
- 従来のオンプレミス管理(SNMP/CLI): これは、各地に点在する熟練の職人が、それぞれの工房で独自の道具と手順書(拡張MIBや独自コマンド)を使い、個別に製品を管理している状態です。品質は職人の腕に依存し、全体の状況をリアルタイムに把握することは困難でした。
- クラウド管理プラットフォームとAPI: これは、中央の司令塔を持つ近代的な工場に相当します。工場長(ネットワーク管理者)は司令塔(クラウド管理プラットフォーム)から標準化された指示書(APIコール)を送るだけで、各工房(ネットワーク機器)の稼働状況をリアルタイムに、かつ詳細に把握し、時には生産調整(設定変更)まで行うことができます。
つまり、ベンダーによるクラウドプラットフォームへの移行とAPIの提供は、個別の機器を管理する「点」のアプローチからネットワーク全体を統合的に管理・観測する「面」のアプローチへの進化という、歴史的な必然なのです。これにより、私たちはSNMPでは決して得られなかった、リッチでリアルタイムな情報を手に入れる新たな「水源」を手にしたのです。
パンドラの箱が開く:
APIエコノミーの黎明と新たな「分断」の予兆
この強力なAPIという水源ですが、手放しで喜ぶことはできません。なぜなら、パンドラの箱の底に「希望」が残っていたのとは裏腹に、この箱を開けたことで、私たちはSNMP時代以上に深刻な「分断」という課題に直面する未来の入り口に立たされたからです。
かつて、SNMPには標準MIBという最低限の「共通言語」がありました。しかし、ベンダーAPIの世界にはそのような共通の規約は存在しません。各社が完全に独自仕様の「方言」で、それぞれのプラットフォームを構築しているのです。
この動きを牽引しているのがシスコシステムズの「Meraki」やジュニパーネットワークスの「Mist AI」といった、グローバル市場のリーダーたちです。彼らが提供するAPIは、SNMPでは得られなかった詳細な情報を与えてくれる「希望」と呼ぶにふさわしいものです。
しかし、ここで明確に認識しなければならないのは、一見すると同じ「API」という看板を掲げているMerakiとMist AIのAPIも、その実態は全くの別物であるという点です。
これは世界各国の電源コンセントに似ています。同じ「電気」を供給するという目的は同じでも、プラグの形状や電圧が国ごとに全く異なるため、変換アダプタなしには日本の電化製品を使えないのと同じです。APIという共通の技術的枠組みを用いている点は同じですが、認証方式からデータ構造、エンドポイントの命名規則に至るまで、その仕様はベンダーごとに完全に異なり互換性は全くありません。両者から一貫した情報を得るためには、それぞれの仕様に合わせた「変換アダプタ」、すなわち個別の開発が不可欠となるのです。
この潮流はもちろん国内ベンダーにも波及しており、例えばヤマハの「YNO(Yamaha Network Organizer)」もAPIを提供し始めています。そして、これもまた先の2つとは異なる第3の「電源コンセント」と言えます。その上でAPIリファレンスが日本語で提供されているという事実は、この「変換アダプタ」の開発をさらに複雑にする一因となり得ることを象徴しています。
今はまだ、API化の黎明期です。先進的な数社がその道を切り拓いているに過ぎません。しかしこの流れが加速し、数年後、市場に存在する無数のネットワークベンダーがそれぞれ独自の形状を持つ「コンセント」を次々と壁に取り付け始めたら、私たちの目の前にはどのような光景が広がるでしょうか。
結論:豊かさと引き換えに訪れる
「バベルの塔」の時代
ベンダーAPIというパンドラの箱は、ネットワークオブザーバビリティの世界にSNMPでは到底到達し得なかった深い洞察と、リッチなデータという「希望」をもたらしました。これは、間違いなく大きな前進です。
しかし、その箱からは同時に標準化の欠如という「厄災」も解き放たれました。今はまだ数種類の「変換アダプタ」を用意すれば済むかもしれませんが、このまま各社が独自の言語でAPIという塔を天高く築き続ければ、遠くない未来、私たちのネットワークは意思疎通の取れない「バベルの塔」と化してしまうでしょう。
マルチベンダー環境が当たり前となった現代において、ネットワーク全体を俯瞰的に、そして一貫した視点で観測しようとするとき、私たちはこの無数の「方言」をすべて翻訳し続けなければならないのでしょうか。
この大きな問いこそが、本連載の最終回で私たちが探求すべきテーマです。APIの分断化という避けられない未来を前に、業界が、そして私たち管理者が目指すべき次なる道標とは何か。次回、その提言をもって、この長い旅を締めくくりたいと思います。
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