最大の気付きは岡本太郎から!? 「HTML5とか勉強会」主催者が若手エンジニアに贈る三位一体のメッセージ
日本UNIXユーザ会(jus) 幹事・フリーランスエンジニア
法林浩之(ほうりん・ひろゆき)
大阪大学大学院修士課程修了後、1992年、ソニーに入社。社内ネットワークの管理などを担当。同時に、日本UNIXユーザ会の中心メンバーとして勉強会・イベントの運営に携わった。ソニー退社後、インターネット総合研究所を経て、2008年に独立。現在は、フリーランスエンジニアとしての活動と並行して、多彩なITイベントの企画・運営も行っている。2012年には、「日本OSS貢献者賞」を受賞
1978年生まれ。Javaエンジニアとして業務システム開発に従事した後、2006年にテクニカルライターに。Java、JavaScriptなどの技術に関わる執筆を続ける中で、『Google Gearsスタートガイド』(技術評論社)を発表。2009年以降はHTML5に傾倒。開発者コミュニティ「HTML5 Developers JP(現在のhtml5j.org)」を立ち上げ、また月1回ペースで「HTML5とか勉強会」を開催。2010年には『HTML5&API入門』を出版した
法林 「トップエンジニア交遊録」第3回は、今をときめくHTML5の第一人者、白石俊平さんにご登場いただきます。白石さんとじっくりお話ができるのは今回が初めてなので、わたしも楽しみなんですが、まずは独特の経歴をお持ちだと聞いているので、そこから教えていただけませんか?
白石 はい。今でこそわたしは「Webの人」と思われていますが、もともとは業務アプリケーションの世界にいたんです。まあ、そうはいってもWebの業務アプリ開発が大部分。Javaでガシガシコードを書いていた時期が長かったんです。
法林 世代的にもIE6がブラウザシェアのほぼ100%という時代ですよね、きっと。その時代に業務用Webアプリのプログラミングということになると、あまりOSSを使うようなことはなかったんですかね?
白石 その辺は恵まれていました。当時はOSSの使用を禁止するところもけっこうあったんですが、Tomcatなどを使えるプロジェクトに当たることが多くて、ベースはOracleだけど、ツールはかなり自由に選べたんです。一時期、会社といっても技術者を派遣するのがメイン業務みたいな、いわゆる出向が多いベンチャーにいたんですが、そのころからはアーキテクト的な位置付けで仕事を任せてもらえる機会が増えていきました。そういう部分も、後々の自分の仕事に活きていますね。
法林 でも、転機があったわけですよね? それって、いつごろ、どんな風に?
白石 アーキテクトの仕事って面白いんですよ。でも、わたしとしてはずっと続けていると正直あきてくるところもあって。技術領域的にも「そろそろ自分を転換していきたいな」と考え始めたタイミングで、ちょっと事件がありまして、それが最初の転機でしたね。
二人の出会いは、法林氏がイベント運営にかかわるLLイベントだったという
法林 事件って(笑)、いったい何が?
白石 非常にタフな案件を担当している時にリーダーが逃げ出しちゃいまして(苦笑)、プロジェクトが頓挫したんです。それをきっかけに別のベンチャーへ移ってアーキテクトの仕事をしたものの、そこも志が高いとは言えない環境でした。
そこでくすぶっているうちに、自分のことを真剣に考え始めたんです。一言で言えば「自分の人生は自分でドライブしたい」と強く望むようになった。それでフリーのエンジニアになりました。
法林 「自分でドライブしなきゃ」という考え方には共感しますね。わたしの場合はそう思えるまで15年くらいかかったけれど、白石さんは比較的早くその思いで動き出したわけですね?
白石 そうなんですが、実はフリーになっても「ドライブ感」は得られませんでした。リスクを背負って自分一人で立ち上がる、というような本当の意味での自立が怖くて、結局それまでと同様、頼まれた仕事をコツコツやる感じが続いたんです。本当の転機がどこだったかというと、もうちょっと先、ライターになろうと決めた時がそうだったんだと思います。
法林 そこですよね、白石さんのご経歴の特徴的な部分って。でも、そろそろこの対談の毎回のテーマでもある部分を先に聞いちゃってもいいですか?
白石 「長生きする技術屋」の3つの条件でしたよね。ちょうど今、その1つにつながるところをお話したところですし、残る2つもここで言っておきますね。
- 【1】 自分のやりたい方向にドライブを掛ける
- 【2】 意識的に「つながる」
- 【3】 とにかく学び続ける
法林 なるほど、1番目の話にちょうど差し掛かっていたわけですね。じゃあ、続きを教えてもらいましょう。
ライターという職務を通じて出会った「やりたいこと」
異色の経歴を持つ白石氏が持つ3つのメッセージは、すべてがつながる普遍的なものだ
白石 わたしはすでに結婚もしていて、多少の迷いや、モヤモヤ感はあったんですが、『JavaWorld』から「Javaのフレームワークの特集をやるので記事を書いてみないか」と言われ、ライターという仕事を考えたんです。
新しい技術の情報を仕入れて、それを読者であるエンジニアに向けて文章でアウトプットしていく。これって自分の勉強や成長にもつながるんじゃないか、と考えたんです。
法林 じゃあ、メディアで書いていくうちに、著書を出す依頼も来たんですね?
白石 その辺はラッキーでしたね。そもそもJavaWorld誌で書かせていただいた経緯もそうでしたけれど、ライターというのは人と人とのつながりで仕事というのが発生するんです。そうしていろんなところで書いていくうち、『Google Gearsスタートガイド』のお話もいただきました。そして、これがきっかけになってGoogleともつながることができ、Google API Expert(現Google Developer Experts)の一員にしてもらったんです。
法林 じゃあ、そのあたりで再びエンジニアとしての生き方を考え始めた?
白石 ライターという仕事のおかげで、例えば当時は今ほど注目されていなかったJavaScriptや、ちょうど出始めのころのAjaxを詳しく知ることもでき、それが後々HTML5の仕事でも役に立ったりしています。そういう意味では、ライターをやったことが自分にとってすごく大きかったとは思うんですが、「50歳を過ぎた時にライターをしている自分がイメージできるか」と問いかけてみると、自分としてもピンと来なかった。
法林 その後、白石さんが「ドライブをかけていく対象」として選ぶHTML5との出会いは、どういうところから?
白石 偶然です。そもそもわたしが書籍を執筆したGoogle Gearsというのは、簡単に言うとWebアプリケーションをオフライン状態でも使うことができる技術だったんですが、その当時友人と作った会社で、オフラインWebアプリのプロトタイプ作りの仕事なんかをずっとやっていたんです。それしかやっていなかったと言ってもいい。
ところが、GoogleはいったんこのGoogle Gearsの技術開発から撤退して、新たな展開を目指そうとした。まあ、焦りましたよ。このままじゃマズい、と。でも、2009年にGoogleは、標準技術としてのHTML5を強くプッシュし始めたんです。
法林 「なぜGoogleが自社テクノロジーではなく、標準技術を?」と思いますよね。
白石 そうなんです。ぼくもそう考えて、ちょっと興味を持って調べてみると、HTML5の枠組みの中に、実はGoogle Gearsの蓄積が全部入っていたんです。だからわたしとしてもこれはチャンスにしなければ、と考えた。言い換えれば、Google Gears漬けの日々を送った自分にとって、そのノウハウを活かすには「ここしかない」という感じでもあったんです。
法林 なるほど、html5j.orgの前身を立ち上げたり、「HTML5とか勉強会」の開催を始めたのもこの時期ですよね?
白石 そうです。今と違ってHTML5は世界的にもそれほど注目されていませんでしたが、とにかくこの技術の裾野を広げていかなければいけない。それで、及川卓也さんと羽田野太巳さんとわたしの3人でコミュニティを作ったんです。けっこう早くから人は集まってくれましたし、HTML5がその後急速に浸透したおかげで、今ではメーリングリストの登録も4700人になりました。
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